昭和四十八年七月七日 朝の御理解
x御理解第一節 
「今天地の開ける音を聞いて目をさませ」


 大変難しい御理解だと思いますが、結局仏教が言う開眼するということだと思うですね、開眼。仏像を造りますと、綺麗に出来上がっても開眼式がなされないと魂がこもらない。開眼式、仏像が出来たといってもそれは仏像ではない。開眼式が終わらなければ仏様としての働きをなさらない。佛造って魂を入れないということになる。
辛抱しておるから目が覚めたとは言えない。
 昨日、ある教会の総代をしとりますという方が参って見えました。
なかなか熱心な信心が出来られる模様です。御祈念をされる、御取次をされる。それが仲々堂に入ったものです。ところが一人息子さんが、高校二年生か三年生だと思う。途中で一年間、教会修行を一年間された。けれども仲々素行がおさまらない。どうでもお道の教師としてお使いまわしを頂きたい。けれども、親の言うことを聞かない。又、先生の言うことも聞かない。
 様々なことがいろいろありましたが、新聞、テレビにまで報道されることまでやり、良いことじゃない、悪い意味で、まあ言うならば、不良ということですね。不良高校生です。親の口からは言われませんけれど、まあそういうふうに思うですね。世間では、「あれは不良だ」と言っているような、のでしょう。
 それで、本人にも金光教に入って先生になれと、まあ強引に一年間教会に修行させたけれども、とうとう素行がおさまらずに、また帰って、また、高校に、学校に行っておるという。というようなお願いがありました。
 けれども、それは本当に素晴らしいことですね。親が自分の一人息子を「お道の教師にでもどうぞお取り立て下さい」と言うて願う程しの願い。「これは神様も大変喜んで下さることだから、そういう素晴らしいことが成就しないはずはない」と私は申しました。神様が一番喜んで下さる、いわゆる難儀な氏子が取次助けられる。その御用をさしてもらうというのが、お道の先生ですから。私はそのことを御取次さしてもらいよりましたら、松葉が落ちるところを頂いた。だから、「あまり人間心を使いなさらずに行けば、心配いりませんよ」と。
 例えば、そこも小倉関係、ここと同じに桂松平先生の信心の流れをくむ教会。だから、ここでは「松」と聞いただけでも有難いと言うのですけれども。あれは歌の文句にもありますように、それこそ「枯れて落ちるも二人連れ」、神様が付いて放れなさらん。まして親の願いというものが、お道の教師にお取り立て頂きたい程しの願いを持っておるのですから、あまり言うて聞かせるとか、「ああせろ、こうせろ」と言うことはいらん。放任しとってよい。只、放任しとくというのは、願って放任しとけばよい。それをあの手この手を使うて、誰に頼み、彼に頼んで言うて聞かせてもろうたり、随分そういうことに一生懸命、まあ親心です。
 ここでもそういう例がありましたよ。けれども、まあ両親が熱心ですから、まあとにかく神様にお任せしきって。けれども、まあ親としては心配で心配でたまらん。その時に、私は神様にお願いさして頂いたら、言うなら、「若い時ニキビを出すようなもんだ」と神様は仰った。だから時期が来ればチャンとおさまる。おさまるどころか、却ってそれがおかげの元になる。
 とても良い息子で、学校がよう出来て、どこか就職でもすると言うたら、とてもあなたが金光教の先生になそうとも思われませんし。
なら、強引にでも教会に修行させようといったこともなかったろうけれども。まあ言うならば、「そういう一つの勢を持っておるのですから、神様がチョット善い方へそれを向けて下さりゃ、それこそ真似の出来んような働きの出来るわけですから。心配なさらんように、只、神様が心配なさらんように、神様が一番お喜びなさる教師にでもお取り立て下さいとの願いを、いよいよ強う持っておいでられたら良いですよ」と言うて、申しましたことですけれどもね。
 問題はね、幾ら言って聞かせて、目をさましよと言うたって出来ることじゃない。それこそ「去りし女房」の歌の文句じゃないけれども、それこそ『使い果たして夢はさめ』というようなね、もう使い果たして、言うなら夢がさめる。だからもう、使い果たしてまあ目が覚めるというおかげを頂けばよいじゃないですか。
 例えば、信心頂いとりましても、今日の御理解を大変難しい風に頂きますならばです、一番本当なところへおきますならです。今申しました、仏教で申します、開眼ということだと思うです。だから信心しておるから、目が覚めとるとは言えない。お互いが、それぞれの夢をもっておるその夢がです、果たして実現したところでです、それが本当の夢であって、ああ夢だ、夢だと言うことではいけんのです。
 熊谷蓮生坊の有名な科白、『夢だ夢だ、十八年は一昔』と言う、自分の子供を亡くして、果敢ないことを言う、科白なんですけれども。私共が一生、言うなら、もう終着駅に近づいてです、使い果たして目が覚めたんじゃもう遅かと。だから本当な意で、私共が開眼のおかげ頂かしてもらう願いに燃えなければいけん。痛い思いをして目が覚めるというようなこと。
 教祖の神様はそこんところを『今天地の開ける音』ということは、教祖金光大神御出現、そして、「取次ぎ助けてやってくれ」と神頼みを受けられた。そこで私共が金光大神の御取次を願い、又は頂いて、開眼して行く道だと思うです。お道の信心は、御取次を願い、御取次を頂いておかげを頂いて行くという。その御利益という意味ではなくて、御取次を願い、御取次を頂いて頂くおかげというのは、「今天地の開ける音を聞いて目を覚ます」ということ。言うなら、御理解を拝聴して、そうだったと目が覚めるということ。
 先日、四日の日の、一時の御理解、『信心する人の真の信心なきこと』ということについて、「天地の働きそのままが真であります。
同時に天地金乃神の大愛であります」という表現がしてありますが、天地金乃神の働きと、金光大神取次の働きとは違うのです。天地の親神様の働きが真ですけれども、それは余りにも偉大。そして、私共には訳のわからない程しの偉大なことなのです。
 例えば、天変地異とかというようなことがございましょう。それも、天地の、言うなら、真だと言うても意味がわからないでしょう。
そして、それが氏子可愛いの一念だと言うたら、尚わからないでしょう。そこで金光大神の大愛ということは、金光大神のね、金光大神が仲を取り持って、私共人間でもわかる、受けられるものにして下さるということなんですよ。
 先日、そこんところを神愛会、教師会の時に、言わして頂いたんですけれども、言うなら、これは大変な教学なんですね。だから、金光大神の大愛と、愛と。天地金乃神の働きとは、そのまま真ですけれども、私達人間では解せないことがある。頂きかねることがある。そこを解せんじゃない、わかるように、しかも頂きよいようにして下さる。言うなら、味を付けて下さる。それが金光大神御取次の働きだということです。
 例えば、おかげが、まあギリギリの問題で言うならば、もうこの人は死ぬるという寿命、例えば運命であっても、金光大神の御取次によって、それを、言わば、無常の風に時を嫌わすという程しの働きになったり。こういう災難を受けなければならないことになっておっても、神様のおかげで、大難を小難といったようなことは、受けよいようにして下さるのです。ね、意味が分かるでしょう、そう言うたら。
 だから、大難を小難、小難を無難にと願わしてもらうがです、そういう働きが、金光大神の働きなんです。太陽が、例えて、天地の神様というならばです、その太陽の熱を、場合によってはそれを全部ここに集めて下さる。御結界の働き、御取次の働き、そしてめぐりを焼き切って下さったり、生のものを煮たり焼いたりして下さるような働きなのです。
 ですから、金光大神というのは、丁度御結界に大きなレンズが置いてあるようなものです。金光大神の働きは。だから、太陽の熱をここに集中して下さる。皆さん子供の時に、あんなことしたことないですか、真っ黒い、書いた黒いものをレンズでこう当てますと燃え出すでしょうが。普通こうしとった分には燃えはしませんけどね。
レンズでここに太陽の光を集めるとそれが燃え出すようになる。
 例えば、黒と(苦労)と言えば、お互いの難儀ということでしょうけれども、その難儀を焼き切って下さる程しの働きが、金光大神取次の働きなんです。だから、そういう特別の働き、御取次を頂いて、私共信心のけいこをさして頂いとるのですから、私共がです、本当のところをわからして下さいと、本当のところを言うなら開眼のおかげ頂かして下さいという願いの下に、私は、信心が進められるおかげ。
 「このことばどうぞお願いします」「このこともどうぞお願いします」という枝葉的なおかげからです、いわゆる「天地の開ける音を聞いて目をさます」という程しのおかげを持ってござる、大変な働きを持ってござる金光大神にお願いしとるのですから。小さい願いで一生終始したのではです、それこそ、信心が無いなら尚更のことでしょう。
 例えば、億万長者になる夢を持っておっても、そして、なら、一生かかって億万長者になった、けれども、それは使い果たすじゃなくて、貯めて貯めて貯め上げて、目が覚めたと言うのでは遅いでしょうが。貯めることも、ああ、あることも言うならば、幸福になりたいというのが願いなのですからね。沢山の金を貯めて幸福になろうというのですから。けれども、金なら金を貯めることに身を【 】して一生過ごして、なら貯め上げたけれども、ああ金は貯めても幸せではなかったと気が付いてももう遅いということ。だからお互い様々な、言うなら難儀なら難儀を通して、お互いがそういう意味に於いての開眼の出来るおかげを頂かなければならない。
 まあ、これと私のことで言うならばです、何十年間の、いわゆる子供の時から、いわゆる胎内の時からの信心ですから、もう言わば金光様、金光様で育った訳なんですけれども。何十年間、まあ三十歳までとして、三十年間という間は、なら金光様の信心も熱心にしておりましたけれども、目が覚めんなりに信心をしておったと言うてもよし、いや只、夢のような信心であったと言うてもよいのです。
 北京に行って、お商売さしてもろうて、そしてうんと儲け出さしてもろうて、まあ年に一度くらい、内地に遊びに帰って来るくらい。
そういう夢を持っておった。そういう夢も半ば達成された。そして大東亜戦争である。そして何もかにも夢を捨てて、内地に引き上げて帰って来て、始めて目が覚めたということ。まあ目が覚めるとが早くてよかったわけです。
 只、おかげおかげで、おかげのことが、一生過ぎておったら、おかげは頂いておったか知れんけれども、本当の信心の開眼というものは出来んなりに済んだかも知れません。どうぞ商売繁昌お願いします、お願いします。成程ですね、商売繁昌を願えば、おかげもお繰り合わせも頂きます。けれども、なら神様が教えて下さるような商売は一つもしとらん。幾らでもよい、高く売れなきゃならん。
 幾らでもよい、売れさえすればといったようなですね、言うなら、普通一般の考え方の上に、神様に「お願いします、お願いします」で辿って来た、例えば商売なら商売の道です。本当に開眼をしてからの商売ということになったらです、もう大変な違いなんです。私共が、何十年間して来た商売は、御取次を頂いてお願いをしておかげを頂いて来たけれども、それは何にもならなかった。いくら儲かっとったっちゃ身に付かない。
 けれども帰らせて…、内地に帰ってはじめて、今までの信心の間違いであることに気付かせて頂いて、開眼のおかげ頂いたところから、言うなら本当の姿勢が出来て、おかげを頂いて来たというのが私だと思うんです。ですから、信心しておるから目が覚めておると、信心に目が覚めておるということじゃないです。
 御取次を頂いて、御取次を願わせて頂いて、神様の特別な働き、それこそ、まずは自分の改まらなければならない、とても改められそうにないところを、神様の特別の働きをもって熱で焼き切ってもらう程しの願いを立て、これはもう煮らなければ、焼かなければ食べられんというものでも、煮てもらったり、その熱によって焼いてもらうおかげだけでなしに、自分の心のおかげ、本当の意味に於いての、開眼が出来る程しの、心の難儀の根というものを焼き切ってもらう程しの願いを、やはり立てなければいけない。そこに気付かせて頂くということ。
 これはまあ、私が裸一貫で引き上げて帰って来て、そして様々な難儀に直面してです、はじめて、今までの信心では駄目だったというところから、例えば、今から思うて見ても、信心がよう出来んと思うように、言うならば、難儀を感じておる時にです、もうその感じておる以上の喜びを持っておったということです。
 一昨日からですか、「夏期信行」の字が書き直してあります。嘉朗さんでしょうか、真っ赤なあれで書いてあります。それこそ燃えるような感じですね。本当に、文字通り燃えるような、言うならばここでの修行があっとります。だからその修行もです、本当な開眼が出来ることのためにね、私は燃えるようなものを出さなければ駄目だと思うです。この、言うなら夏期修行でです、本当な開眼が出来る程しの、私は修行でなければいけんと思うです。
 只、金光様の信心さして頂いて、御取次を頂いて、このこともお願いしてと、それはお願い出来るけれども、それよりか、もっともっとです、いわゆる開眼さしてもらえる程しの願いを立てて、言うならば、真の信心と申しましょうかね、その真の信心に開眼出来る。
 私が丁度、それはあちらから引き上げて帰った時に、今までの信心ではいけなかったと、完全に回れ右をした。信心は、金光様の信心には間違いないけれども、完全に回れ右をした行き方に変わってしまったというようなです、信心に、お互いならなければいけない。
只、夢が覚めたというようなものではなくてね、お互いが、そうした修行の一つも出来る時にです、開眼のおかげを頂いて、真の信心を体得さしてもらう、わからしてもらう。
 『今天地の開ける音を聞いて目をさませ』と。天地の開ける音というのは、それこそ、もういつも凄まじいまでの音がしておるのですけれども、私共が聞き耳を立てないから聞こえない。あまりにも大きな音ですから、その音の中に慣れきってしまっておる。それを私共聞き耳を立てるようになりますと、それこそ針が落ちた音にでも気付かせて頂くような、神経が神様に向けられますと、ああこれでは、今までの信心ではいけなかったとわかる。その時はじめて、本当の意味での開眼であり、本当の意味での、天地の開ける音を聞いて目を覚ましたのであると思うですね。どうぞ。